福岡&博多祇園山笠

東流は博多の東部旧東町筋を中心とした流です!。その中で今年から本町に復帰する町が我が上浜口町です



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山笠での年功序列

28日の月曜日には、先日飾りつけた七夕飾りを撤去・収納作業がありました。

土居流の上新川端通の若手との共同作業です。

飾り付けるときに比べたら、飾りを外して大きなビニール袋に入れる作業なので、結構早く片付きました。


で、例によってその後、直会が商店街の理事長初め長老方がいる中でありました。
皆さんの中で、お年寄りから20歳くらいの若者まで一堂に会して、飲み食いをしながら話しをする…ということは余りないんではないでしょうか。
ここでは山笠という組織の中で、皆が一つの目標(山笠を無事奉納する)に向ってやってきているから、若者は先輩として年配者の意見を尊重し、年配者は実働部隊としての彼らの意見を尊重する・・・非常に良い関係が出来上がっているのです。


こういうところが山笠の良さだと思います。もっとも、若者はやはり上役の前では緊張するのもあり、また羽目を外せないという意識がありますから、充分には楽しめないかもしれないですが…(笑)。

この山笠の組織は、昔で言えば若衆宿みたいな世代を超えた人の交流の場を提供しているのではないかと思います。

昨今の親子や世代間の断絶が問題になっていますが、こと山笠に関する限り、そういうことはないのではないかと思います。

最近は都市のドーナツ化現象で、山笠にもその波は押し寄せ、流の区域内に居住している人口が年々減少しているのは事実です。
しかし、親が山笠に出ているところは結構その子供たちも小さい頃から離れた所からでも山笠に参加しています。


私は思うんですが、山笠の組織は子供の情操教育や、大人になるための知識を養う意味でも、とても良い組織だと思っています。

幼い頃から同じ町内の大人たちは皆親代わりみたいな環境で育っていくので、山笠に出ている若者で、ワルはいても、不良みたいな若者はいません。
それは近所のおいちゃんが彼らの小さい頃をよく知っており、おいちゃんたちにがられながら(怒られながら)育っていくからです。

青年になり、山では手拭をもらって、一人前と認められる様になっても、先輩や年長者の意見は聞くという姿勢には何か今の若者にはない清清しさを感じます。



やっぱり・・・山笠があるけん、博多たい! 






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  1. 2006/08/30(水) 04:58:00|
  2. 山笠
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あまりにも悲しくて・・・

あまりにもショックで…、ブログを書くのを中断していました。


26日の朝刊を見て、また福岡で悲惨な事故があったな…可哀想だな。

『25日夜、かぶと虫取りに行った帰りの一家4人の乗ったRV車が飲酒運転の車に追突され、14m下の海に転落。
幼い子供3人が死亡…。』

そんな感じでいたんですが、次の日の朝刊を見てショックで声が出ませんでした。
そこには亡くなった二人の男の子が、山笠の衣装で手をつないで笑いながら写っている写真が掲載されていたからです。


未来の山笠の担い手だったかもしれない…幼い命が、突然奪われたのです。
何の罪もない、全く予期せぬ出来事に遭遇して、あっという間に。

ご両親のショックは計り知れないと思います。
心情を思っただけで言葉になりません。

本当にショックでした。
今でもあの写真の笑っている子供さんの姿が脳裏に焼きついています。
私も自分の子供が幼い頃、手を引いて山笠に出ていました。
ちょうど写真のような感じでした。



それにもう一つ、追突した車の運転手である若者は近所でも評判の子供好きで、ちびっ子ソフトボールチームのコーチもしていたと言うではありませんか。

直前まで飲んでいたスナックには、普段はタクシーで来て帰るのに、この日に限って自家用車で来ていた…(スナックのマスターの話)。

事実かどうか解りませんが、皮肉なもんです。そういうときに限って、こんなことが起こるものなのでしょう。

追突した車には、他に二人同乗者がいた…しかもそのうちの1人は32歳…運転していた彼よりもずっと年上。
何故、止めなかったのか…考えると、腹が立ってしょうがないです。


あまりにも悲惨な事故であるために、個人的な想像はやめますが、追突した彼も勤め先であった市役所を追われ、これからいろんな罪で起訴されることでしょう。
その上に今回のような事故では、被害者が加入している保険は出るでしょうが、彼が加入していたであろう任意保険からは一切支払いがなされないと思います。
彼はこれから先、事故で相手を死なせてしまったという事実を一生抱えて生きていかねばならない上に、自力で相手に賠償金を支払っていくしか方法はないのです。

たぶん一生かかっても返せないような経済的負担を強いられるのです。
自業自得とはいえ、これも悲惨です。


自分にも同じ様な息子がいるので、すごく複雑な心境です。



交通事故に限らずあらゆることは、いつ自分の身に降りかかってくるか分からない時代ですが、人為的な事故や事件に巻き込まれるのはたまらないです。

もう少し自分を律する意識が欲しいものです。


もう・・・こんな悲惨な事故は止めにしてもらいたいものです。



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  1. 2006/08/28(月) 06:29:40|
  2. 車&保険
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八番山笠上川端通りだけにしかない物

山笠の備品チェックで思い出したのですが、現在でも使用している他の舁き山にはない備品があります。


それは、山台の四足に履かせる輪です。
重さ約2トンもある山なので、山笠の期間中商店街の中を日にち毎に移動する時に少人数で移動させやすいようにということで使用しています。

この輪なのですが、その昔もう15年位前になりますが、当時の八番山笠上川端通は舁き手の数も少なかったということもあって、清道入りをした後、国体道路に出て曲がったところで山を止め、件の輪を履かせて元来た道を静かに押して商店街に戻ってくるということをやっていました。

その時は櫛田神社の清道の舞台では「鎮めの能」が奉納されている傍を押して帰っていた訳です。
当然我々としては申し訳ないという気持ちと恥ずかしいという気持ちが入り交ざった複雑な思いで、山を押していたものでした。

出来れば舁山と同じとまではいかなくても、山を舁いて戻って来たいというのは皆の願いでもありました。


そうこうしている内に舁き手の数も増えてきて、平成元年からは舁き棒の長さが従来の舁山と同じ三間棒だったのを、山の大きさに合わせて四間棒に替えました。(通常の舁山は一本の棒に表、見送り(前後)各二人ずつ付くのですが、三間棒になったことで我々の上川端通は表、見送り各三人ずつ付ける様になったのです。)

これがきっかけになって、確か平成5年からだったと思いますが、櫛田神社の清道を出た後国体道路に出て、舁山と同じコースを辿り、東長寺の清道を廻った後、再び大博通りを北進…現在廻っているコースを行くようになったのです。

今思うと、当時は輪を履かせて押して帰る時に沿道の人から「なあんだ!ついてるじゃん!」みたいなことまで言われて、心の中で「くそっ!」と思いながら帰っていたものです。



今では八番山笠の通るコースまで案内図やガイドブックに載る様になり、専門のファンも増え、追っかけまでいるくらいに盛り上がってきました。


それも、周回コースを廻れるようになった賜物だと思っています。
出来れば折角ですから、承天寺の清道も廻りたいというのがみんなの夢です。

しかしながら、これには電線の問題や八番山笠だけがコースが変わるという面で、交通規制のことなどの問題もあり、なかなか難しい問題なのです。


でも、いずれは承天寺の清道まで廻って、三つの清道をきちんと廻って奉納したい…そう願う山のぼせであります。



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  1. 2006/08/26(土) 05:04:47|
  2. 福岡県福岡市博多区
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昨日は衣装、備品のチェックを行ないました。

昨日は山笠備品チェックと、貸し出していた衣装や締込などがクリーニングから帰ってきたので、その整理を役員全員が集まって、汗だくになりながら行ないました。


私たちの八番山笠上川端通は前にも書きましたが、土居流の構成町と重なっている関係で、若い人たちの大半は土居流の方にいきます。
なので、上川端通の山は慢性的な舁き手不足に悩まされております。(現在は近隣のキャナルシティの方々や博多区役所、県庁、銀行などからの舁き手の応援参加をいただいていますので、かなりの人数の確保が出来ています)

そういうことで、以前から九州大学の学生さんにお願いして応援参加をいただいているのです。ですから、彼等の大半には山衣装の貸出しを行なっているのです。

その数は100以上になります。
締込、水法被、地下足袋etc.・・・それらを種類毎、サイズ別に仕分けし、来年すぐわかる様にまとめて箱に入れ、箱の外側に表示をして収納する。
それだけではありません。その他に山笠に使う旗や幕などの備品、水当番用のバケツやホースのチェック、バッテリーや砂袋、四足用の台車など・・・数えたら相当な数と種類の備品を一つ一つチェックして、来年使うときにすぐわかる様にしながら、収納していきます。
この地味な作業を今のうちにやっておかないと、来年スムーズな行事の運営ができなくなります。


ですから、我々にとっては1年間が山笠で動いているといっても過言ではないのです。



これからは今年の運営に関する状況をレポートにしたり、来年に向けての課題を討議したりと、数え上げたらよくそこまでやるなあ(笑)というくらい、時間を見つけて打合せを繰り返しながら来年に向けての準備をしていきます。


山笠もスポーツと同じで、これで完成した!ということはないのです。
何年やっても毎年新たな課題が出てきます。
だから、続けられるのかもしれませんが・・・。


来年はこんな素晴らしい・・・、または周囲をあっと言わせるような山笠を作っていきたい…そう願う山のぼせであります。



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  1. 2006/08/23(水) 13:53:01|
  2. 福岡県福岡市博多区
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追い山馴の起源

先日、コメントで追いはいつ頃始まって、どういう理由でするようになったのか?という内容の質問がありました。


恥ずかしながら、私自身もそのことについての知識はありませんでした。
で、私なりに色々と調べた結果、明治44年以前は山笠行事は旧暦で行なわれていたそうです。

小屋入りという流の詰め所みたいな所を開いて、山笠にむけて準備する日が夏の入りである4月1日に行なわれ、を組み立てる組みが5月の下旬で、5月の末日にはお汐井取りが行なわれていた様です。

それから6月1日から7日までの奇数日に山笠を飾りつけて舁き廻り、6月10日には本飾りを飾って、夜には大篝火を灯して飾りを見せていたました。
翌11日には朝山と他流舁きが行なわれ、12日から14日までは飾りを簡素にして舁き、満月に近い6月15日早朝…月明かりと薄明の中、追山が行なわれていたとのことです。
(後述しますが、どうもこの当時(正確には明治16年以前)は追い山はなかった様です)

今でも山笠は非常に長い期間をかけての祭りですが、当時はそれ以上に2ヵ月半も期間があるものすごく長いお祭りだったようです。

で、肝心の追い山ですが、明治初期に時の明治政府が政情不安の中で、山笠の集団性に対して危惧を抱き、度重なる禁止令を出し、山笠はその都度中断に追い込まれました。

漸く明治16年(1873年)になって山笠は復活し、この年から追い山が行なわれるようになったとの記述があります。

私が考えるに、恐らく当時は政府の方針にびくびくしながら山笠を舁いていたのではないでしょうか。だから、お上の様子伺いの為もあって、追い山という形でやってみたんではないだろうかと推察する次第です。

それが定着して現在の追い山になったのではないでしょうか。

明治38年(1905年)の追い山馴のときに、二番山の福神流が雷鳴を太鼓の合図と間違え出発したことで、後に続く山笠も出発時刻を守らず、祭りは大混乱になり、それは追山まで続きました。
その事件が元で、福神流は翌年以降責任を取って山笠を立てなくなり、昭和39年まで山笠が櫛田神社清道入りを果たした後の鎮めのの奉納だけを受け持つ当番の役割をしていたというエピソードは広く知られています。


以上が追い山馴がいつ頃始まったのかということと、始まったいきさつを自分なりに考察したレポートです。


参考になりましたら幸いです。



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  1. 2006/08/21(月) 06:39:02|
  2. 福岡県福岡市博多区
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博多と福岡

今は台風が通過中の福岡市です。風はそれ程ではありませんが、雨が結構降っています。 このまま立ち止まらずにスーッと通過してほしいものです。


ところで、よく聞かれるんですが、「博多」と「福岡」ってどう違うんですか?と・・・。

福岡市の陸の玄関口は「JR博多駅」…で、空の玄関口は「福岡空港」…外から来られた方にとっては「博多」と「福岡」どう違うのだろうと戸惑いもあるのかもしれません。

資料を調べますと、「博多」という地名は奈良時代(8世紀)に登場しますが、「福岡」は1600年の関が原の合戦の功により筑前国主となった黒田長政が、福崎(現在の赤坂付近)の地に新しく城と城下町をつくり「福岡」と改めたことによります。

それ以後、町の中央を流れる那珂川を挟んで西側を城下町「福岡」、東側を古くからの商人の町「博多」と呼び、双子都市が誕生しました。

明治22年(1889年)に福岡市が誕生…その翌年の明治23年(1890年)に福岡市会(当時の市議会)で博多地区出身の議員から市名を「博多市」に変更する建議が出され、すったもんだの末議長裁定の1票差で否決されたことは有名なエピソードです。

その年の12月に国鉄が開業し、駅名を「博多」にすることで折り合いがついたそうです。
だから、博多と福岡の境界線は中洲の袂を流れる那珂川で区切られるのです。


他所から来た人の中には、百道浜(ももちはま)のドームやホテルまで博多の・・・と言われる方がおられるそうですが、厳密に言うとあれは福岡にあるのです。(笑)


山笠で言いますと、新天町にはずっと以前から飾り山が立ち、子供山笠も盛んなのですが、それは終戦後焼け跡からの復興に、博多にあった老舗のお店が新天町の地区を国から借上げ、そこに商店街を作ったということから、飾り山笠が立つようになったのです。

そいう意味では博多名産として博多織や博多人形などの商人に由来したものが多いというのも理解できると思います。



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  1. 2006/08/18(金) 21:49:58|
  2. 福岡県福岡市博多区
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博多祇園山笠・豆知識・八番山笠上川端通

ずっと山笠のことを書き綴ってきて、自分の山笠(八番山笠上川端通)のことを話すのが遅くなりました。


上川端通は元々土居流の上新川端町という構成町の一つです。

昭和39年(1964年)上川端商店組合で飾り山を舁(か)こうという話が持ち上がり、櫛田神社、振興会、各流との話し合いも了解を得て、その年の追い山馴に櫛田入りだけをしたのが始まりです。

わずか清道(112m)を1周しただけですが、観客からは大きなどよめきが起こり、その後紆余曲折を経て現在のコースを走る様になりました。

その年に振興会に出された書状は今でも私たちのプライドとして受け継がれています。


【書状写し】

 博多の町を祇園の風が吹きなびき只今絢爛たる山笠気分は最高潮に達した感があります。
 日本三大祇園の随一として勇壮無比、高い格調を誇る博多祇園山笠も本年はいよいよ国の無形文化財の指定を受ける段階となり各方面の資料集めが行なわれております。吾上新川端町は永年の夢であった動く飾山笠建設を古老及び有識者諸氏とも相談の上遂に実現いたしました。
 明治以来電灯電話線架設其の他の事情の為中断しておりました人形を飾った高い形態のまま舁き廻る豪華華麗さの再現は博多人全ての夢であったと信じます。
十二日の追い山馴舁きの当日、五時十分頃を期して八本の山笠が順次出発した直後、奉納櫛田入りをすべく神社側の了解もつき流各町の協力も得ていよいよ実現の運びとなりました。町内舗装道路の上にては毎夜十時に舁き廻して何ら事故なくスムーズに動いておりますが櫛田入り本番ともなると競い過ぎて横倒しになりはしないかなど町責任者古老たちもいささか頭を痛めております。
 当日は何かとご指導を仰ぎ度く御一覧賜りまして、種々御批判御検討下さいますようご案内申し上げます。
  昭和三十九年七月八日
各位                     十四番山笠上川端通
                           上新川端町


当時は十四番山笠で、八番山笠上川端通として定着したのは昭和42年からのようです。


その後の八番山笠上川端通の歴史については、後ほど紹介していきたいと思います。




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  1. 2006/08/18(金) 01:32:35|
  2. 博多祇園山笠
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地域によるお盆

昨夜我が家では送り火を焚いて、集まってこられたご先祖様に別れを告げ、お盆の行事が終了しました。


福岡(博多)…我が家では13日に迎え火を焚き、提灯を仏壇の前に灯しお供え物をして、ご先祖様をお迎えします。

そして、その間にお墓参りもしてきれいに掃除します。

16日には送り火でご先祖様を送り出します。


私の母の里は鹿児島なので、一昨日母を連れてお墓参りに鹿児島まで行ってきました。

鹿児島は特にお墓を大事にします。ことある毎に墓へ行き、掃除をして花を替え、常にきれいな状態にしています。


私たちも頻繁には来れないので、とにかく掃除をし、周りの伸び始めた草を刈り(既に管理の方がきれいに払ってくれていたのですが…)、線香を上げて帰る途中、他のお墓の人たちが大勢でクーラーボックスや椅子などを運び上げているのが見えました

これは初盆の家では15日はお墓に一族が集まり、故人と飲食を共にするという風習があるからです。

だから初盆のお墓は電灯や豪華な飾り付けがしてあったりとすぐ分かります。


つくづくその光景を見ながら、これだったら亡くなった人も喜ぶだろうなぁと思いつつ、こんなところにも地域の文化があるんだなと感じました。

同じ様に長崎では初盆の家を中心に、精霊船を浮かべ爆竹を鳴らして、死者を供養します。


同じ九州でも地域によってこれだけお盆のやり方が違うんですね。


その他に福岡の博多部ではお盆が終わった8月24日から26日に「流勸頂(ながれかんじょう)」と言って、流の地域でお祭りが開かれます。

これは身内の供養が終わった後、無縁仏や餓鬼供養のために始まったお祭りと言われており、必ず奥には供養のための祭壇が設けてあります。

博多の人間の心の広さを示すエピソードじゃないでしょうか。

この時期その地域に行くと、出店の屋台が出て下町の小さなお祭りという雰囲気が溢れています。



最近はお盆を迎える姿も段々変わって来ているというか、ご先祖様を一族皆でお参りして敬っていくという風習が薄れてきている様な気がしてなりません。

地域の文化を守っていくというのももちろんですが、それ以上に自分たちのご先祖様を敬う気持ちは失くしたくないものです。




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  1. 2006/08/16(水) 23:55:17|
  2. お盆
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博多にいると気付かないこと:PART1


先日福岡(博多)に転勤して4年いたという方とお話をすることが出来、大変興味深いものがありましたので披露したいと思います。


先ず食べる方からいきますと、皆さんは「ひよこ」や「チロリアン」といったお菓子を耳にされたことがあると思います。

それらは皆博多(福岡)銘菓なんですが、東京や関東地区でも宣伝されているらしく、東京の人は東京のお菓子だとばかり思っていた。とのことです。

私も友達から東京土産といって、「チロリアン」をもらったことがあります(笑)

CMが発達すると、何処の銘菓か判らなくなるってありますよね。


他に食事をしにいった時に、鯖を生で出されたのには驚いたとのことです。博多では胡麻鯖といって、生の鯖を胡麻と醤油で和えた物を食しますが、東京では鯖を生で食べることが無いのでしょうね。

でも、とても美味しかったとのことです。

余談ですが、大分では「関鯖」といって佐賀関の沖合いで採れた鯖は特別に味がよく臭みも無く新鮮なので、本当に生で刺身にして食べます。


それから、全く意味が違うという食材の中に「てんぷら」があるとのこと…。関東地方では「てんぷら」はあくまでも海老や魚、野菜を油で揚げたいわゆるてんぷら定食などで出てくるてんぷらを「てんぷら」と言いますが、博多ではそれももちろん「てんぷら」なのですが、その他に魚のミンチを揚げたものやいわゆるさつま揚げのような物まで総称して「てんぷら」と言います。

だからうどんやおでんで、丸天という名称が出てきます。


東京ではそれはさつま揚げと言うそうです。
それを聞くと、変な感じです。こちらではさつま揚げはさつま揚げで全然別ですから・・・。


そのほかにも色々と面白いことがあるんですが、次回改めて紹介していきたいと思っています。


皆さんの中でもそういう地元で認識していることと、余所から見た人との違うものなどがありましたら、是非コメントをお寄せください。


アクセスアッププロジェクト

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  1. 2006/08/14(月) 17:37:52|
  2. 九州・博多
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暑い!


本当に毎日暑いですね。


博多では山笠が終わった途端、翌日から雨が降り出し、打上げ旅行も雨に祟られましたが、月末になって漸く雨が上がり、夏らしくなったと思ったらこの暑さ続き…本当に参りますね。

梅雨明け宣言から今日まで一滴の雨も降っていません。こうなると雨乞いの祭りなんかも欲しくなりますね(笑)。


ところで、暑いと言えば山笠では毎年のことなんですが、6月に行なわれる山笠備品や機材のチェック、荷下ろし作業と棒締めです。


備品、機材のチェックと荷下ろしの作業は、商店街事務所3階にある倉庫に上がり、そこに保管してある重たいロープや砂袋、コンパネ、バケツなどの数をチェックし、棒締め前に1階に降ろす作業です。


3階にある倉庫はエアコンどころか換気扇もついていないため、夏場は本当の蒸し風呂状態です。


その中に入って作業するというのは、地獄の訓練みたいなものです。

準備作業は当番法被を着て行ないますから、本当に大変なんですよ。
当番法被自体が厚手の木綿の生地を使った久留米絣で出来ているので、それをTシャツの上から羽織っているのは、まるでTシャツの上からスプリングコートかジャケットを着ているようなもんです。
本当に暑いんですよ。


それを着て、蒸し風呂かサウナの中で、作業するのがどういうことか、想像してください。
終わった後は下着のTシャツだけじゃなく、当番法被まで汗でびしょびしょになります。

同じ様に棒締めのときも汗びっしょりになります。


暑いと思った途端、山での行事を思い出しました。



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  1. 2006/08/14(月) 05:15:16|
  2. 福岡県福岡市博多区
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ちょっと飲みすぎました。


昨日の話の続きです。


七夕の飾り付けが終わったら恒例の直会(なおらい)…、ワイワイやって楽しくてお開き後もそのまま橋を渡って中洲へ…。

ちょっと調子に乗りすぎて飲みすぎてしまいました。


今日は午前中1件打合せがあったのですが、睡眠不足と酒が残ったまま頭が痛いのを我慢しながら出かけていきました。


相手から「顔赤いよ」って言われて、「いやぁ貴方に会ってアガってるんだよ」と言ってみたものの、バレバレ状態でした。(笑)


何せ、山笠じゃあるまいし朝の5時過ぎまで飲んでいたのですから・・・。


でも、仲間って言うのはいいもんですよ。 皆いい奴ばかりだし…本音で話が出来るから安心できるんです。

あっ、我々で言う仲間って、山笠仲間っていう意味ですからね。
どうもよその人が聞いたら登仲間って思われるみたいです。…そうですよね、普通は登仲間かなって思いますよね。(笑)
だから、僕等の間では、山笠に出かけるとき、「山に行ってくる」と言って家を出ます。・・・??みたいでしょ(笑)


で、ブログに余りにも写真が少ないので、今度商店街で企画した山笠フォトコンテストに出品された写真をアップするようにしました。

スキャナーで取り込んでからになるので、いい写真になるかどうかわかりませんが・・・。



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  1. 2006/08/11(金) 19:25:30|
  2. 飲み会
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昨夜は七夕の飾りつけ



昨夜は商店街の営業が終わる夜8時から、七夕飾りをアーケードから吊るす作業を土居流の若手と一緒になって行ないました。

この飾りは仙台で行なわれた七夕飾りをそのままこちらに送ってもらったものです。だから、仙台と全く同じ雰囲気にしようという企画なんですが・・・。

全長100m以上ある商店街のアーケードの天井近くのハリから青竹をロープで固定したものを下に降ろし、その青竹に飾りをくくりつけていくのです。

青竹の間隔は5m位で、一本の青竹に5つの飾りを吊るすようにして、飾り付けていきます。色やデザインが色々とあるのでバランスを考えながら、配置していきます。

で、全ての飾りを吊り下げた後は仙台に勝るとも劣らない飾りの完成です…と言いたいところですが、

仙台は飾りの下の部分がアーケードの路面から1mほどの高さになるので、飾りの林の中をかき分けながら歩いていかなければならないくらい壮観なのです。

が…、ここでは人が触れるくらいにするとライターで火をつけたりする悪い人間がいたりするということで、路面から下の部分が3mくらいの高さまでにしなければなりません。


そこで皆で飾りの下の部分を鋏みで切っていく作業をやりました。



出来上がってみると、確かに七夕飾りですごいんですが…、中には切りすぎてミニスカートみたいになったのもあるし、何かバランスが取れていない飾りがちらほら。うーん??


やはり七夕飾りは丸い玉の下に長い吹流しみたいな紙飾りがあってこそ映えるのですが・・・、


仕方ありません。

仙台では商店街一丸となった禁煙活動が浸透し、こちらのような不安はないとのことでしたが、それを聞いて私たちの上川端商店街も考えなければならない時期に来ていると感じたのでした。



ということで、無事に七夕の飾りつけは終わったのですが、こういうところにも我々山笠の関係者が携わっていることを知ってもらいたくて記事にしました。



だから、終わった後は恒例の直会(なおらい)という簡単な酒宴が開かれました。

これが楽しいんですね。皆でワイワイガヤガヤと年齢関係なく酒を酌み交わして話をする…。


やっぱり

山笠があるけん博多たい!


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  1. 2006/08/11(金) 18:08:51|
  2. 福岡県福岡市博多区
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ここでもう一度山笠の歴史を振り返ってみよう

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山笠の期限は諸説がありますが、現在では仁治2年(1241年)承天寺(じょうてんじ)の開祖・聖一国師が博多津中の人々が担ぐ施餓鬼棚に乗り、甘露水を撒いて疫病退散を祈願したことが発祥といわれています。

承天寺には現在もそのときの施餓鬼棚が保存されています。

永亨4年(1432年)『九州軍記』に「六月十五日博多津櫛田祇園の社祭あり。三社の御輿を沖の浜へ御幸の後、山の如く十二艘の造り物をからくみ、上に人形やうな物をすへて、是を舁ささげもて行」とあり、今の山笠の原型が出来たと思われます。

そして、天正15年(1587年)太閤秀吉が博多の町割を制定し、これより博多祇園山笠の七流れが始まったとされます。

当時の山笠はゆっくりと町中を練り歩き、「昼喰い」という休憩もあり、到る所で休憩して酒飲んだりして、のんびりとした祭りだった様です。

しかし貞亨4年(1687年)『博多土居町に住む助右衛門という者があり、娘を竪町幾右衛門の息子に嫁がせしが、正月幾右衛門の息子夫婦が嫁の里に初入りした際、幾右衛門の息子に土居町の若者が水桶をかぶせ、それを余興に酒宴をしていたところ、幾右衛門の町内の者が聞き、土居町の助右衛門のところに押しかけて大喧嘩となり、その場はとにかく収まりしも、この夏の祇園山笠は土井町が二番山、三番山が官内町で竪町の組みなり』と櫛田社鑑にあります。
三番山の竪町の者は正月の恨みが未だ残っていたので、二番山が東長寺で山を止め「昼喰い」をしていた時、ここぞとばかりに勢いたち追い越そうとした。二番山もこれに呼応して追い越されるものかと走り出した。これが、追い山笠の起源といわれています。


その後、太平洋戦争が激しくなった昭和19年まで山笠は続けられましたが、昭和20年6月19日福岡大空襲により、博多の町は焦土と化し大勢の人が亡くなりました。
これにより山笠は中止となる。


※今でも6月15日には、上川端通に隣接する冷泉公園で福岡大空襲で亡くなられた方の慰霊祭があります。



終戦の翌年昭和21年、奈良屋校区の復興際で子供たちがにわか造りの山笠を舁き廻り、大人を勇気付けた。

それから3年後の昭和24年に落石栄吉氏が先導役となり、博多祇園山笠振興期成会が誕生し、氏が初代会長となる。

その後昭和30年に博多祇園山笠振興会と改組し今日に到っています。


(以上は博多祇園山笠振興会の資料を基に作成しました)


現在ではハワイやニュージーランド、上海などで山笠を披露し、文化の交流にも勤めています。


こうやって書きますとやはり長い歴史と伝統に支えられているというのがよく分かりますよね。



次回は、山笠にまつわる色々な風習や慣わしをお話します。

少しはためになりましたか。

来年、山笠を見に来られるときは山笠の歴史も参考にしながら、見物してくださいね。

山笠があるけん博多たい!


この気持ちを忘れずに…と、山笠にのぼせる山のぼせです。

  1. 2006/08/10(木) 04:50:06|
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さて、明日は上川端通では七夕の飾りつけ…

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この10日から上川端商店街では、仙台の七夕祭りで使用した飾りを送ってもらい、仙台に負けじと七夕飾りを商店街に吊り下げます。

その作業に我々八番山笠の役員も駆り出されます。

直接山笠と関係はないのですが、商店街が運営する山笠である限り、また商店街の隆盛自体が直接我々八番山笠の運営にも関係する以上、商店街発展のためであればと積極的に参加していく考えでいます。
重さ10kg以上もある飾りを商店街のアーケードから吊り下げる作業は、暑さと危険との戦いです。
でも、出来上がって通行するお客さんが感嘆の声を上げると疲れも吹っ飛びます。


そして、山笠では恒例の終わった後の直会(なおらい)があります。


総務指示の元、商店街内の飲食店(居酒屋が多い)にいき、そこで皆で飲食をするのです。


とにかく博多の街では山笠の連中が集まって何か作業をやるときは、必ずと言っていいほど終わった後の直会はつき物です。

それほど仲間同士のコミュニケーションを大事にするのです。

だから、山笠は離れられないんですね。

祭りに一緒に出て、ストレスを発散し、一年に一回バカになる。

これも素晴らしいことなんですが、やはりお互いが仲間として認め合って助け合う。この気持ちが素晴らしいんです。

年齢の垣根を越えて、仲間として認識しあう・・・今の世の中なかなかないと思いませんか。


つくづく博多にいて、そして山笠に携わっていて良かったと思える瞬間です。


  1. 2006/08/09(水) 04:32:01|
  2. 七夕 七夕祭り
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  1. 2006/08/08(火) 07:00:03|
  2. 福岡県福岡市博多区
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山笠打上げ旅行ー最終編

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2回に渡って山笠打上げ旅行を書いてきましたが、ここまで読まれた方は単なるグループ旅行記じゃないか…と思われるかもしれませんが、

実は全くその通りなのです。

山笠の性格上・・・15日間は禁欲生活…、旅行はハチャメチャ!エロエロ旅行になるんじゃないかと期待された方には、誠に申し訳ありません。

実際は単なるおじさんたちの慰安旅行なのです。

確かに若い時は、溜まったものを吐き出す様に、温泉地に繰り出して女を求め・・・みたいなことはありましたが、今は美味い食事をして、温泉や大浴場に浸かってゆっくりと身体を休めることが主目的になりました。

でも、決して枯れてる訳じゃありませんから誤解しないでくださいね。
まだまだあっちの方は元気な方ばかりですから・・・(笑)

今回の長崎旅行は夜半から雨が上がり、宴会の後すったもんだの挙句長崎の街に繰り出しました。

何故かというと、宴会の際仲居さんを除いては全く女っ気なし!
仲居さんも配膳をするだけで、すぐに奥に引っ込んでしまい・・・まあ、話が盛り上がらないこと。


ということで、盛り上がらないまま宴会がお開きになったので、みんな何となく冷めてしまって、各々部屋で酒飲んだり、テレビを見たりとパッとしないまま時間が過ぎていったのです。

これじゃいかんと上の役員と相談して、その部屋に皆集まってもらい、再び宴会が始まり、酒が入ると共に盛り上がって、やっと市内に繰り出そうとなったのですが・・・その時既に11時30分を回っていたのです。
タクシーを呼び、分乗して歓楽街に乗り入れたのですが、時間は遅いし日曜日ということもあって、開いている店が少ないのです。

そこで、歓楽街ガイドみたいな所に行き、開いている店を紹介してもらってそこに行きました。

そこでの騒ぎっぷりは、まあ普通の酔っ払いのおじさんと一緒で、とにかく女の子がいれば盛り上がったのです。 男とはやっぱり単純ですね(笑)。
で、ホテルに戻ったのが3時過ぎでした。


翌日は雨も上がり、暑い一日になり出島を見学したり、グラバー園に行ったりしましたが、とにかく暑くて寝てない身体には疲れがどっと出て、帰りのバスは全員ぐったり…というか、爆睡状態で博多に帰ってきました。

とまあ、こんな旅行でしたが、旅行というのはいいもんです。
必ず旅先でハプニングや印象に残ることがありますから・・・。


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  1. 2006/08/08(火) 05:17:13|
  2. 旅行
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先日花火大会がありました。

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もう1週間も前になりますが、去る8月1日福岡市内では有名な大濠公園というところで、市内では一番大きな花火大会「西日本大濠花火大会」が蒸し暑さの残る夜8時から華々しく開催されました。

花火というものはいつの時代でも夏の風物詩として本当にいいものですね・・・と言いたいところですが、最近は花火を楽しむというよりも人が集まるから行くとか、彼女ともっと接近したいからなど・・・純粋に花火を楽しむ風潮が薄れてきているように思います。

昔もそれなりに今と変わらないような考えの人もいたんでしょうが、大半の人は花火を観賞するという情緒が溢れていたような気がします。

きれいな花火が上がると「玉屋~」「鍵屋~」と褒め称えて風情を楽しむという日本独自の文化があったように思います。

ですが、都会の花火というのは近年高層ビルやマンションの林立で、見える範囲も限られ、情緒がなくなるのも当然かもしれませんが・・・。
でも、いつ見ても花火はいいですね。
やはり、パッと咲いてパッと消える瞬間の美学なんでしょうかね。

それにしても福岡には他に久留米市の筑後川花火大会や下関市と門司(北九州市)の共同開催による関門海峡を挟んだ海峡花火大会という大きな花火大会があり、両者とも1万発以上の花火が上がるのですが、近年大濠花火大会は年々規模が縮小し、6000発と「西日本花火大会」と銘打った名が泣くみたいな状況です。

都会のど真ん中でやるという難しさもあるのでしょうが、折角集まってくれた人たちを感動させるためにも、もっと打上げ本数を増やしたらいいのに…と思う山のぼせです。

ソフトバンクなんかが名乗りを上げて、倍以上の規模の花火大会に出来ないのかなとつい思ってしまいます。 そうすればまた大濠公園が福岡市の名所として復活できるのにと思っています。

大濠公園はその昔入り江だったところを時の黒田藩主が堰き止めさせ、黒田城から見える池を配した庭園にするという目的で埋め立てられて出来た公園だそうです。

昔の殿様はすごいことをするもんですね。

  1. 2006/08/07(月) 05:13:48|
  2. 福岡
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