福岡&博多祇園山笠

東流は博多の東部旧東町筋を中心とした流です!。その中で今年から本町に復帰する町が我が上浜口町です



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ここでもう一度山笠の歴史を振り返ってみよう

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山笠の期限は諸説がありますが、現在では仁治2年(1241年)承天寺(じょうてんじ)の開祖・聖一国師が博多津中の人々が担ぐ施餓鬼棚に乗り、甘露水を撒いて疫病退散を祈願したことが発祥といわれています。

承天寺には現在もそのときの施餓鬼棚が保存されています。

永亨4年(1432年)『九州軍記』に「六月十五日博多津櫛田祇園の社祭あり。三社の御輿を沖の浜へ御幸の後、山の如く十二艘の造り物をからくみ、上に人形やうな物をすへて、是を舁ささげもて行」とあり、今の山笠の原型が出来たと思われます。

そして、天正15年(1587年)太閤秀吉が博多の町割を制定し、これより博多祇園山笠の七流れが始まったとされます。

当時の山笠はゆっくりと町中を練り歩き、「昼喰い」という休憩もあり、到る所で休憩して酒飲んだりして、のんびりとした祭りだった様です。

しかし貞亨4年(1687年)『博多土居町に住む助右衛門という者があり、娘を竪町幾右衛門の息子に嫁がせしが、正月幾右衛門の息子夫婦が嫁の里に初入りした際、幾右衛門の息子に土居町の若者が水桶をかぶせ、それを余興に酒宴をしていたところ、幾右衛門の町内の者が聞き、土居町の助右衛門のところに押しかけて大喧嘩となり、その場はとにかく収まりしも、この夏の祇園山笠は土井町が二番山、三番山が官内町で竪町の組みなり』と櫛田社鑑にあります。
三番山の竪町の者は正月の恨みが未だ残っていたので、二番山が東長寺で山を止め「昼喰い」をしていた時、ここぞとばかりに勢いたち追い越そうとした。二番山もこれに呼応して追い越されるものかと走り出した。これが、追い山笠の起源といわれています。


その後、太平洋戦争が激しくなった昭和19年まで山笠は続けられましたが、昭和20年6月19日福岡大空襲により、博多の町は焦土と化し大勢の人が亡くなりました。
これにより山笠は中止となる。


※今でも6月15日には、上川端通に隣接する冷泉公園で福岡大空襲で亡くなられた方の慰霊祭があります。



終戦の翌年昭和21年、奈良屋校区の復興際で子供たちがにわか造りの山笠を舁き廻り、大人を勇気付けた。

それから3年後の昭和24年に落石栄吉氏が先導役となり、博多祇園山笠振興期成会が誕生し、氏が初代会長となる。

その後昭和30年に博多祇園山笠振興会と改組し今日に到っています。


(以上は博多祇園山笠振興会の資料を基に作成しました)


現在ではハワイやニュージーランド、上海などで山笠を披露し、文化の交流にも勤めています。


こうやって書きますとやはり長い歴史と伝統に支えられているというのがよく分かりますよね。



次回は、山笠にまつわる色々な風習や慣わしをお話します。

少しはためになりましたか。

来年、山笠を見に来られるときは山笠の歴史も参考にしながら、見物してくださいね。

山笠があるけん博多たい!


この気持ちを忘れずに…と、山笠にのぼせる山のぼせです。

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  1. 2006/08/10(木) 04:50:06|
  2. 福岡県福岡市博多区
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